前沢牛の歴史

日本一への道のり

前沢牛を育てる極意とは、一頭一頭を大切に育てることである。
生産者は自分が楽して育てようとは考えず、牛舎を見回り、牛の顔色を判断し、ストレスがたまらない環境を作っています。こうして全生産者が一丸となって研究し、実践にあたり、その結果が日本一の「前沢牛」の名を不動のものにしたのです。

運搬手段から肉用肥育へ

奥州市前沢地域はもともと稲作中心の土地であり、美味しいお米が取れる土地です。
その昔、農耕・運搬用として飼育されていた牛馬が、電動力耕うん機の導入により、牛は繁殖と肉用肥育牛として飼育されるようになりました。
しかし、昭和44年に前沢からはじめて東京食肉市場に出荷されたときの評判は「岩手のガリ牛」といわれる程の散々な結果でした。

品質改良と地域内一貫生産の確立

種牛に兵庫牛を、繁殖牛に島根牛をそれぞれ導入しました。この配合によって生まれた牛は非常に相性が良く、水と空気がきれいな前沢の地で素晴らしい肉質の牛に育ったのです。

また、肥育牛として出荷された肉牛の枝肉情報が当時の前沢町農業協同組合をとおして繁殖農家に還元され、「肥育農家が望む血統の子牛を生産する」という肥育素牛の供給に主眼を置いた独自の和牛改良体制が作られていきました。

前沢牛の原点・生産者間の交流

肥育農家の間では、連日「お茶のみ会」が頻繁に行われ、そのなかで肥育技術向上のための情報交換が行われました。その後に牛の出荷日に併せて行われるようになり、年間100回、延べ人数にすると1,000人以上の人が集まり、地域全体のレベルアップに繋がりました。

こうした生産者同士の交流は他には例が少なく、前沢牛発展の原点となりました。

日本一の記録

こうした生産者や地域を上げた研究や努力の結果、昭和53年には東京食肉市場の通常出荷で、枝肉重量401kg、枝肉単価6,110円、枝肉販売価格245万円というすばらしい記録を樹立しました。ここから前沢牛の快進撃は始まります。

その後、全国肉用牛枝肉共励会において名誉賞を6度受賞するなど、数多くの牛肉品評会で優秀な成績を収めるようになり、前沢牛の名声が知れ渡りました。


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